2024年6月22日土曜日

小説「笑顔」

 息ができなかった。その日は。

飯田橋の駅を出た出口付近の、馴染みある細いビルにブルーシートが一面に覆い被さっていた。

私の呼吸は急に激しくなり、動悸が強く私に襲いかかった。

6月。

死の季節。

なぜ死ぬことを選択したのか、真相はよくわからない。

「おはよう」

空な眼差しで、伊勢海老のようになりながら私は昭和臭の漂うグレーに赤みが勝ったような色のドアを開けた。

小さな会社。社員8名。ほとんど老人か40代以降の中高年で、私はその中でただ1人20代の女だったから、重宝された。

もちろんここで、この退屈で低月給な社員の1日を語ることはしない。

ファクトは、どうでもいいことなんだよ

大事なのは、自分の印象の中で、自分の感性の中でいつも何が起こっているのか。

楽しいのか、苦しいのか。

確かに給料は安かったけど、私は実家暮らしだったしお弁当は自分で作った。

といっても簡単な、玄米と韓国海苔に、小さなウィンナーがつつましく陣取っている。

栄養価は微妙だったけど、それでも生きている実感がわいた。

わたしは浪費をするほうではなかった。

元カレの西田くんはよく浪費をした、それに、自分の身の丈にあわないような高級時計をわざわざ、ローンを組んで買ったりしてたな。自動車免許ももってないくせに。

まあでも西田くんは顔がよかったし身長も高かったから、全部許す。

なんていう日常があったりして。

西田くんと私が結局別れることになったのは、西田くんの浮気が原因だった。

「ライフスタイルがちげえんだって。お前といるとね、俺は逐一管理されてるような息苦しさがあるんだよね。なんで俺はお前に詰められなきゃいけないの?無駄遣いとか、あれは節約できるとか、俺にとってはクソどうでもいい。俺にとっては、俺のクソみたいな毎日にとってこの仕事後の一杯のビールとラーメンとガルバって、かけがえのないものなわけ。このロレックスも。このアルマーニも。俺が俺でよかったって、心底笑顔になれるわけ」

でもあんたは私のことは笑顔にはできてないでしょ。

わたしは、笑顔という言葉が嫌いだ。

わたしは日本生まれで日本以外に出たことのない日本人だけど、笑顔は日本人のもつ呪縛と言ってもいい。

つまり内面性と切り離された顔面の表情。

つまり、面の皮からの奥行きを一切失った薄っぺらい内面性。ヌル。

笑顔。スマイル。笑顔。

保守に凝り固まった偏屈な教師も言ってた、「笑顔」なんだよ。って。

つまり内面が欠損している、

歩く土管だ、

だから人のものを盗むことに良心の呵責がない。

考えない。

並べるだけだ。

何かを生み出さない。

だから、何かを生み出す人間への潜在的憎悪がある。

常に自分を正当化し、まわりを傷つけて回っているだけだ。

そして心の底の奥行きや精神性の欠損を、すべて面の皮一枚に「表象」させ、そしてお前という人格はその面の皮一枚で終わりなんだ。

自分そのものが空っぽな空洞であり、自分自身の骨格や輪郭がないので、

人工的に輪郭を作らなければ世界に露出することができない。

そういう、笑顔。

だからわたしは笑顔がきらいだ。

その対義語が「涙」だ。

「涙」だ。「感動」だ。「いい人」だ。「笑顔」だ。

全部に共通するのは、「絵面」だ。「きみがどう感じるか」「きみが何を思うか」「きみがどういう生き方をするか」、じゃないんだ。真逆だ。ただただ消費されるためだけの、薄い薄い、絵面。体裁。外壁。


家族からの手紙を、得意げにSNSで全世界に発信してしまうような、そういう人間性。


貧しい人間性。


貧しい社会。


貧しいエコノミー。


すべて、5歳児のような精神性や内面性に「プラクティカルな」なにかが搭載されている、そういう知覚、

だから生きにくいんだ。

だから内面をもつということは、それは社会から浮くんだ。

そして孤立し、引きこもるしかない。

そういう感受性は引きこもるしかない。

西田くん、あなたはその外っ面の奥がわに何にもない、

まるで透明人間みたいに、何にもない。

信念や、葛藤や、奥行きや、傷ついた経験の蓄積や、克服の過程がない。

だから西田くん、君と一緒にいても、毎日が平坦な繰り返しにしか思えない。

そして、きみも私に同じものを感じたのかもしれない。

私も、きみにとってはつまらない女だった。

エッチも、マンネリしていたのかもしれない。

はじめて、震える手で私に渡したラブレターは、もう残っていない。

一度得た魚を、チューインガムみたいに、ずっと噛み続けることができない、

きみはきみの隣で歩く人間を、きみを着飾るためのジュエリーとして・・・きみがそう思っていなかったとしても、潜在意識で、私はあなたの道具のように感じた。

途中から人間として扱ってもらえていない、気がしたんだ。

「あそこで飛び降りたあの人」

40代の小太りの磯崎さんがボソッと語り出した。

「俺、前に一緒に仕事したことがあるんだよね」

うちは名刺の組版システムを作っていて、あのビニールシートの建物の4階にあるあのテナントに、その名刺を届けていたんだ。

「いい人だったな。笑顔だったよ」

笑顔ってなんだろう。

私個人の大きなコンテクストを付け足したせいで、笑顔という概念に過剰な敵愾心を抱いているだけなのかもしれない。

笑う角には福来る、なんでもそうだけどそれはそれで日本の市井のひとつの文化的な観念なんだ、私が捻くれていただけなのかもしれない。

でも、本当に必要なのは、


偽りの笑顔ではない


本当に必要なのは、加害をしてくるアスペ的な、よくいる昭和の男性に対して「NO」をつきつけることじゃないだろうか。

自分が人の心を土足でふみしだくのは平気で行う幼稚さと対照的に、

自分に向けられた言葉には過剰に敏感な、

男尊女卑の制度の枠組みで培われた幼稚な精神性。


わたしはそういうことに対して、ほぼ耐性がゼロになっていた。


自分を終わらせる必要なんてない、


くだらないやつのために、自分を削る必要なんてないんだ、


いやなもの、不快なものにはきちんとNOを言うべきなんだ、


そう思った、午後の昼下がりだった。


※この話はフィクションです

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