2024年7月11日木曜日

野獣先輩と、キリスト教

 


今回は野獣先輩とキリスト教についての簡単な考察を述べてみたいと思う。


野獣先輩とは

野獣先輩は、インターネット上で非常に広く知られている人物である。彼の正体は、ビデオシリーズ「真夏の夜の淫夢」に出演した俳優の一人であり、そのシリーズがインターネットミームとして広まり、特に日本のネットコミュニティで注目を集めた。

1. 背景と起源 野獣先輩は、2001年にリリースされたゲイビデオ「真夏の夜の淫夢」第4章に登場するキャラクターである。このビデオは、その独特な演技と台詞回しにより、後にインターネットミームとして人気を博した。特に、野獣先輩の存在感や印象的な台詞が、ネットユーザーによって多くのパロディや二次創作の題材となった。

2. インターネット文化への影響 野獣先輩は、インターネット上で広範な影響を与えた。その名は、掲示板や動画共有サイトなどで頻繁に取り上げられ、特にニコニコ動画やYouTubeでの関連動画が数多く存在する。彼の台詞やシーンは、数多くのMAD動画やコラージュ作品に引用されている。

3. メタ分析と社会的な見解 野獣先輩のミームは、一部では「クソコラ」や「淫夢厨」といった否定的な評価も受けているが、その一方で、彼のキャラクターは多くのネットユーザーにとっての共有文化として認識されている。この現象は、現代のインターネット文化におけるコミュニティ形成やアイデンティティの一環として理解されることができる。

4. 結論 野獣先輩は、インターネットミームとしての象徴的な存在であり、彼のキャラクターとその派生作品は、日本のインターネット文化において独自の位置を占めている。彼の影響力は、単なる一過性の流行にとどまらず、ネットユーザー間のコミュニケーションや文化の一部として定着していると言える。


野獣先輩のもつ本質的な意味

キリスト教会が野獣先輩を使うことについては賛否両論ある。ただ、ここで間違ってはいけない観点は、野獣先輩が「インキャ男性」にとっての「脅威をかんじない同性」というアイコン性を持っていることだ。

いわゆる野獣先輩をネタとして消費した時に、「ゲイを揶揄している」「ゲイを好奇の対象とし、見下している」という指摘は基本的には本質的に「ずれている」。

なぜなら、

1. 「シミケン」は我々ノンケを象徴する存在ではない

2. ゲイであることと、ゲイポルノ男優であることは等価ではない。前者は性的嗜好であり、後者は特殊な職業的なカテゴリである

3. 野獣先輩について「ゲイを面白おかしく揶揄して楽しんでいる」という指摘は、そもそも「ゲイビデオ」が「ゲイ」と等価であるという非常に強引なコンテクストの「付け足し」であり、解釈する側の問題であって、ミームを消費するがわの問題ではない。

4. ガチムチレスリングのビリー・ヘリントン氏の日本での受容のされ方(これはオンサイト含む)からみられるように、「兄貴」はいわゆるモックキングのような「あげて・落とす」形の冷笑というよりは「サブカルの親しみ」という受け取り方をされた

これらの論拠から、「露出されたゲイコンテンツ」と「ゲイ属性」の混同そのものがまず差別の温床であり(例:我々は自動的にシミケンや加藤鷹にはならない)、ネットミームが紐づけているのは「露出されたゲイコンテンツ」であるという前提条件をまず明確にしなければならないということだ。

ネットミームのもつ本質的な意味

そして、野獣先輩は、たとえばハセカラやwojakなど、サブカル・アングラのネットコンテンツである。「ネットのおもちゃ」という言葉は揶揄的に乱用されるきらいがあるが、「おもちゃ」とは壊して遊ぶものではなく、ガンダムやプラモのように組み立て、独創的に発展させていくものである。

ゆえに、野獣先輩もMADが生まれ、音楽コンテンツが生まれ、また海を渡った。

これを「ネットいじめ」というふうな一元的な解釈をすることは危険が伴う。

むろん、ハセカラのような文字通り「ネットいじめ」に端を発したコンテンツもあるが、重要なのは

1. 強烈なキャラクター

2. ストーリー

3. 文化の発展

という3つの軸から、たとえばハセカラは3DMADや周辺にアングラの文化が育まれていった。

野獣先輩もこの流れの一つであり、まずそれは「キャラクター」「ストーリー」「文化性」という3つの軸から巨大化していった一つのコンテンツなのである。

若者のもつ「闇」を浄化するProxy

そして、野獣先輩をふくめ、特に心理的な抑圧下にある若い青少年、インキャたちが彼らの抑圧された感情をおとしこむ逃げ口はどこか?
それは若い女の子なら、自傷行為であり、リストカットなのだ。
これが、若い青少年の場合、ネットミーム、つまりこれが「ホモガキ」と呼称される淫夢厨の正体である。ハセカラもそうである。後者はモックキング的な側面が強いが、わかるのは、彼らは暗闇の中で救済を求めている

そこまで日本の教会は読めますか?ということだ。当教会が日本の教会の「お行儀の良さ」に問題意識を持っているのも、そのお行儀の良さが、善意や道徳によって若者を押し潰していると感じるからだ。

道徳や高潔さをご立派に語る大先生なんかより、教会に来る障害者につきそって食事介助をやりとおす信者の方が1億倍価値がある。

この倒置構造というか滑稽さという問題を、わたしの観測範囲では教会で見てきた気がする。(手を汚さない道徳的にご立派なクリスチャン大先生問題)

日本の教会で、教会のお兄さんが「はは、きみのシャツはだけてるね。それでいいのかな」などといったネチネチした・イヤミな指摘をするのであれば、律法にはじまり律法で終わる、エホバの証人とレベルの大差のない教会になってしまう。それは目的と手段を履き違えている。クリスチャンが魅力的でない

彼らが野獣先輩で笑っているときに感じているものは「脅威をかんじない同性」という、非常にレアでありながら彼らが失っているであろう関係性である。

それは、クラスで迫害してくる陽キャや大人たちではない。自分たちを縛り、自分たちをジャッジする大人でもない。

それは、自分が見下すことのできるアイコンでありながら、「自分自身」を「野獣先輩」に投影しているのだ。

政治よりも野獣

わたしは日本の教会が政治を全面に押し出すのは、シンプルに間違っていると思っている。

これは私見であってそうでない人をダメというわけではないが、この「党派性」を要求するような人間関係というのは、健全ではない。

若い人に伝えるべきメッセージは今の与党がだめだとか野党がだめだとか消費税がどうだとかあの不祥事がけしからんということではない。

野獣先輩や真夏の世の淫夢は、そういう意味できわめて「中立的neutral」であり、反芻できる面白さがありながら、たとえば若い子たちのもつ「鬱屈した感情」「負の感情」をそこにダンプできるような何かそのような求心性があるのだ

それを、白ヘルをかぶることを教会で踏み絵にしちゃだめだろ、

日章旗をたたえることを教会で踏み絵にしちゃだめだろ、

そんなの別のドメインでやれよ

それ教会じゃなくてもできるよね

と個人的には思ったりするのである。

みなさんご存知、オウム真理教と同じカテゴリの宗教である旧統一教会も、まず

「日本人を許せない」「俺たちが上、日本人が下」

という政治イデオロギーを聖書よりも上に置いたことが1つの特徴として挙げられる。

これは逆も同じだ。特定の集団を蔑んだり敵視したり、自分たちだけがすばらしい、みたいな思想を聖書の上におく、または自分たちの政治思想やイデオロギーを正当化する手段として聖書を使う、

それは、カルトを育む危険があるんだ。

だからダメなんだ。

教会は聖書を学ぶ場所だ。

誰かを憎んだり、排除したり、裁く場所じゃ、ねえんだ。

むろん批判したいというよりも、まず本当に若い人にキリスト教を布教したいなら「優先度」、まちがえちゃだめだよね、と。

その優先度とは、

若い人一人一人の現実的な、即物的な、また内面的な問題なんじゃないか、と。

まずそこをきちんと押さえてなかったら、教会としては何もしていないのと等しい。

やるべきことの優先順位をシンプルに、間違っている。

まあそんなかんじで。

思ってることを書き殴ってみた

岸田文雄氏が「まず選挙に勝たなければ土俵にすら立てない」という言葉を残した(と記憶しているけれど)、

われわれクリスチャンも、「まず面白いと思ってもらえなければ土俵にすら立てない」ということをしっかり覚えた方が良い

身内で殴り合ってる場合ではない

教会で政治を語るなら、野獣先輩を語った方が1億倍ましってこと。

以上!(教会の外なら全然OKよ!)


※なお、新聞はそもそも政治など時事を伝えるための媒体なので、ここでは除外する。あくまで教会が政治に染まるのは個人的に違うよね、と思う


2024年7月9日火曜日

キリスト教って、武道の「型」なんだと思う

キリスト教って、武道の「型」なんだと思う。

きみたち特に若い世代の子たちに言いたい。

わしは40年近く生きてきたんで、40年のセーブポイントで、どういう景色をみているか、少しだけシェアしたい。

私は、父親のことが心底嫌いです。

父親は牧師でしたが、わしに日常的に心理的な虐待を行っていました。

また、老後は特にいわゆる陰謀論や人種差別などに傾倒し、この泥沼のような状態は今でも続いています。

家庭が地獄である

父親が尊敬できるって、幸せなことなんです。たとえたまには喧嘩があっても、最後は尊敬できる目標みたいな親父ならそれは素敵なことだ。

でも、そういう家庭ばかりではありません。自分のこと、自分の感情にしか関心のない父親もいます。そして、いつもそういった、幼稚で卑屈な父親や、平気で子供を半笑いで侮辱したり恫喝するような親もいます。

1人じゃない

そして、おそらく僕なんかはあくまでも数多くの一例で、親を許せない子はたくさんいると思っています。僕も本当に酷い目にあいました。そしてそのときの憎悪というのは今でも根強く残っています。

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名前を侮辱されたこと。

親として叱るのでなく、ガキとして怒りをぶつけられたこと。

低くみられ、軽く扱われたこと。

一方的に価値観を押しつけられ続けたこと。

自分を理解してくれなかったこと。

自分が裁かれたこと。

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でも結局子供にとって親は選べません。家庭に居場所がなくなってしまったら、もうトー横に行くしかない。でも、それって悲しすぎるんじゃないかと思う。

だから神を信じる必要があるんだ

正直、ずっと父を憎んで生きてきました。

今も、憎しみから自由になれていません。

荒唐無稽で、ただ人を蔑んだり傷つけるような発信を繰り返す父にまったく共感できません。

排外的で、偏見だらけな父親にもうんざりしています。

でも、いつも煽ってくる父親に対して、最後は許さなければいけない

本当に、クソの掃き溜めのような発信を繰り返す父親でも、最後は許さなければならない

毒親でも、最後は許さなければならない

でも、これは重要なことだと思う。

多くの人は、許せない。

人を、許せない。

それが、最後には殺人にまで発展してしまうケースがある。

煽られたから、ついやり返してしまった。

挑発されたから、手が出てしまった。

あいつにずっと恨みを持っていて、ついに刃物を使ってしまった。

そういう事件。

そういう、人の罪。

神を信じなければ、最後は地獄です。

最強の人、という言葉がありますが
最強の人の行き着く先は刑務所であり、死であり、地獄です。

相手の命を最後に奪ったら、自分の人生は終わりです。

大切な人も守れない。

だから歯を食いしばる必要がある。

そのためには神が必要だ。

これは議論する余地のないことだ。

キリスト教は、武道の型です

そして、こういう「許せない」というシーンは、たくさんでてきます。

自分の知り合い、友人、上司、部下、道でたまたますれ違った人、酒場でたまたま隣だった人、運転中隣を走っていた人。

なにかが起きて、なにかのボタンのかけ違いで、

自分は相手を傷つけるかもしれない。

それが極端な犯罪でなくても、相手に攻撃的な言葉をなげかけて傷つけてしまうかもしれない。

相手を貶めようと、悪評を流すかもしれない。

そして、そういう悪は、最後自分の身を滅ぼすんだ。

そういうとき、聖書を知っていれば、強い。

聖書には「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉がある。

キリストの教えを知っていれば、普通の人がストレスフルな、苦痛な経験をしたときも、「ものごとの理解の解像度が変わる」「世界が変わる」

だから聖書を読まなくてはいけません。

だから聖書を読むんです。

純粋にキリスト教を信じていたら、

私たちはお互いに愛し合えるはずだ。

純粋にキリスト教を信じていたら、

より苦しくて絶望的ななかでも、きみは他の人よりずっと強くなれるはずだ。

なぜなら神が一緒にいるから。

キリスト教は、武道の型です。

2024年7月8日月曜日

【考察】「イエス」か、「イエス様」か?

以前、すきえんてぃあ氏が以下のような投稿をされていて、「ほぅ」となった。







すきえんてぃあ氏はキリスト教徒ではない方なので、信者でない人の目線がみれるというのは非常におもしろい。なぜ「イエス様」に違和感を感じるのか?

100%すきさんの意図やコンテクストを汲めているのかは一旦置いておいて

この「イエス様」問題を、わしの観点からもう少し解剖していこうとおもいまふ


イエス様そのものはまあ、ふつうに使われている

はじめに言っておくと、わしのようなキリスト教家庭で育った身からすると、まあ「イエス様」と呼ぶことそのものはまあ当たり前だよね、となる。おそらく信者のほぼ100%このイエス様を日常的に使用しているからである(わしの体感としてはね)。まあ、神なので。


一方で、「イエス様」という呼称は、「身内ノリの」呼び方

いっぽう、すきさんの感じる「違和感」というのは本質を穿っているところがあって、これは既存の教会そのもののもつ「閉鎖性」「身内ノリ」をある意味で体現している。その身内ノリが「滲み出てしまっている」、それが「イエス様」という言葉に詰まっているような気もするのだ。なのでわしとしては「Oh! Good Question」的な発見があったことも事実だ。

キリスト教徒は往々にして、キリスト教徒同士でしか使わない用語・世界観・前提条件で会話する。それが信徒同士の会話やミサならともかく、これをたとえば「未信者を想定した」世の中全般への発信でもおなじインターフェースで発信をする。

よく考えてみてほしい。日本語圏、という縛りだけで考えても、たとえば会社とかで自分の上司や社長を取引先で「上司さん」「上司課長」などと呼ぶのはやはり非常識(と伝統的な社会通念では思われている)のであって、取引先には「上司は今席を外しておりますが〜」というのが常である。

それが教会という閉鎖空間の一歩外をでたときに、忘れ去られている。


伝道でだいじなのは、未信者をしること

まあ「未信者」という単語を使って「おまえこれから信じるんだからな」みたいな価値観の押し付けはしたくないんじゃが、この言葉がまあ便利なんであえて「未信者」という単語で一括りにさせてもらうと、やはり未信者の人に神を伝えるのにだいじなのは未信者のきもちを理解し、未信者の需要を理解し、未信者に「次もまたこの人に会いたい」と思ってもらえることなのではなかろうか。

その際、いわゆるカルト的な擬態(人生の意味を考える会〜)は結局世俗を装ってカルトに引き摺り込む蟻地獄であり長年社会問題化しているのだが、ただし彼らのような「悪」から学ぶこともあるはずだ。

それは、伝統的な、本当に人々を益することを意図したフツーの教会が、もっと「世俗にコミット」することだ。

ASMRキリスト教会の淫夢コンテンツなんかは、いわゆる宗教アスペ(つまりカルト)をフィルタリングするための「お札」みたいな役割も果たしており、そういう形で徹底的にエンタメとして機能する、未信者の人が「おもしろい」「時間を消費するメリットがある」と思ってくれるということが肝要だ。

そのためには、キリスト新聞の松谷さんにも伝えたことだが、教会が蛸壺化し、蛸壺から老人ホームになるみたいな最悪の事態は避けなければならない。

カルトをのさばらせてはならない。既存の教会がもっと元気にならなければならない。

信徒を大事にしないといけない。

まあそんなことを思った今日この頃でした!

2024年7月7日日曜日

聖書モテモテ❤️恋愛講座|第4回|どうしたの?何か悩んでる??Part2

 




目次📖
・最初に
・今回のトピック
・重要なポイント4つについて
・聖書からの導き
・最後に

~最初に~

初めましての方は初めまして!
声優の「とろふぃ〜ゆ」と申します。

普段は聖書朗読のご依頼を受けたり、YouTubeで礼拝配信をしています。


前回は「一歩踏み出す大切さ」について書いてみたよ。
今回は前回の続きだから、読んでから今回の記事を見ることをオススメするよ🎵


そんな感じで今回も恋愛についての持論だとか、いち女の子の意見を伝えていくよん


~今回のトピックはこれ!~

「悩んでいる時こそチャンス!」

前回紹介した、私が悩んでいる時に見つけて感銘を受けた動画がこちら!

執着捨てるか、沼にハマるか。

重要なポイントとしては、
1.脳内ファンタジーを作るな!
2.人は目的があって出会う
3.幸せは自分で作るもの
4.何があっても「OKマインド」で受けいれる。

1.脳内ファンタジーを作るな!

つまり現実と向き合わないで脳内だけで完結するな!

「割と好みかも」って言われたから好いてもらえているのかなぁと(まぁこの例はハニトラ感あるねw)自分の良いように考えてしまったり、
逆に、返事かえって来ないのにSNS動いてる…嫌われてるのかなぁと過剰に悪いように考えてしまったり…

思うまではまずまずとして、考えすぎて実際はそうでもないのに無駄に振り回されちゃう!
そんなのもったいないよね!

2.人は目的があって出会う

出会う人はみんな、自分に必要な経験となるからこそ出会ってるんだよ!

もしそれが悪い関係や結果に終わったとしても、きっとそれは自分に不足していることがあるからこそ起こっている。という考え方なんだ!

良いことも悪いことも全部糧にして自分へ活かしていこうね💗

3.幸せは自分で作るもの

あの人がいないと私は幸せになれない!

な~んてこと、絶対ないです!!
「今」幸せになれないかもしれないけど、他に幸せになる道はた~くさんあることを忘れないで!自分で自分を幸せに出来るよ!幸せになりたいなら、自分を幸せにする義務は自分にあるの。
相手が自分の幸せの全てである状態だと、お互いにしんどくなっちゃうからそうならないように気を付けようね?

4.何があっても「OKマインド」で受けいれる。

成功した?おk!失敗した?おk!次頑張ろう!

認知療法というものがあるように、「認める」「受け入れる」ことで物事や考え方が動きやすくなるんだ!
大事なのは、失敗したら「次どうするか」なんだよ?

みんな人間なんだから失敗することもある。
だからこそより良くなるためにはどうすれば良いか、それを考えていこうね💗

〜聖書からの導き〜

ローマ人への手紙 8章28節

「神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々には、すべてのことが協力して益となるように働くということを、私たちは知っています。」


〜最後に〜

今回の記事を読んで、どんな幸せを掴んでいくのかな?

みんなの毎日が少しでも良いものになるよう願ってるね。

アーメン✝️

数字を取るには・・・


だらだらとエコノミストを読んでおった(わしは紙のエコノミストが好き)

https://www.economist.com/asia/2024/06/27/meet-the-incels-and-anti-feminists-of-asia

そこで目に入ったのが「アジアのアンチ・フェミニストとチー牛」というタイトルで、

韓国と日本の事例をあげて、韓国男性のNEET率はこの24年で8%から21%に増加し、一方で韓国女性のNEET率は44%から21%へと減少した、といったことや、日本女性の未婚率が60%以上にのぼる・・・といったことなどがあげられていた。

2022年の調査では、42%の20代の日本男性が異性経験がなく、30代においては17%が童貞だ・・・ということらしい。

ここから何が読み解けるのか?

おそらく、ワイが思うに

1. 日本・韓国はわりと世界的に(イスラムほどでないにせよ)儒教的父権主義の社会が長く続いた。

2. これは、男がいばり、男側のコミュニケーションコストが極端に低い世界であった(つまりコミュニケーションコストはほぼ全部女性持ち)

3. いっぽう、ここ数十年で日本韓国の女性の教育水準や生産性などが飛躍的にあがり、男性を(マクロで見て)凌駕した。

4. 1. 2. で既存の父権的な社会の枠組みの前提で育ってきた男性は、社会の変化についていけていない(3.)

5. ゆえに、そういった中で社会で負けている、割を食っている現実から逃避するために、女性を叩く(とくにツイフェミ界隈)傾向が強くなった


まあ上記だとちょっと意地悪な言い方にはなるが、ただ日韓共通の傾向として、「女性の社会進出によってより社会に居場所がなくなってしまった弱者男性が、よりネットの世界で溜飲を下げるようになった」ということができるかもしれない。


つまり?

つまりこれはSNSの世界ではビジネスチャンスである。SNSというのは「正確な情報」がより拡散されるのではなく、「より注意を引く」ものが拡散される。

Xでの砂鉄氏、ひまそらあかね氏などの投稿をみているとやはり

女性に敵愾心をもっている弱者男性層」に刺さる発信

をしている。特に砂鉄氏にいたっては発信の真実性の観点からいうとほぼ根拠のない(baseless)荒唐無稽な主張がかなり多く、ただそれはあくまでもファクトとしてであって、

彼がどうしてあそこまで支持されているかというと

「弱者男性の心の琴線に触れる」

「弱者男性の怒りを代弁する」

「弱者男性の社会への鬱憤を晴らす、溜飲を下げる」

発信の宝庫だからではないか・・・と思われる。


ASMRキリスト教会として

ここまで弱者男性と一括りにしてしまったが、わたしはこの弱者男性を本当に、心の底から応援している

ただ、「女はくそだ」「これだから女は」みたいな恨み節を唱え、(男尊女卑コンテンツや発信など)それを消費しても、彼らの人生はまったくよくならない。

ASMRキリスト教会は、こいつら弱者男性を、


モテる男にしたい


これが、我々の重要なミッションと思っていい。

「女は能力がなんとかかんとかでぇ〜、天才とかいなくて凡庸でぇ〜ヒステリィで〜」

とかぶつぶつ言っていても格好悪いだけでぜんぜん人生楽しくないだろ。


俺はお前らインキャを、「今の」


「この令和の」


時代の女からみて「魅力のある」男にしたい。


これが、うちらのミッションです。


モテないアスペ男同士で傷を舐め合うのではなく、(わしもアスペやったからな)


そこから、一歩ずつ進化していくんじゃ。


その答えが、「聖書」なんじゃ。


ちゅうわけで、これからも弱者男性諸君の心を「癒し」、また弱者男性諸君が女性にモテるようにがんばります。


つまり聖書ASMRにはちゃ〜んとご利益があるってことや。


以上やで!