今回は野獣先輩とキリスト教についての簡単な考察を述べてみたいと思う。
野獣先輩とは
野獣先輩は、インターネット上で非常に広く知られている人物である。彼の正体は、ビデオシリーズ「真夏の夜の淫夢」に出演した俳優の一人であり、そのシリーズがインターネットミームとして広まり、特に日本のネットコミュニティで注目を集めた。
1. 背景と起源 野獣先輩は、2001年にリリースされたゲイビデオ「真夏の夜の淫夢」第4章に登場するキャラクターである。このビデオは、その独特な演技と台詞回しにより、後にインターネットミームとして人気を博した。特に、野獣先輩の存在感や印象的な台詞が、ネットユーザーによって多くのパロディや二次創作の題材となった。
2. インターネット文化への影響 野獣先輩は、インターネット上で広範な影響を与えた。その名は、掲示板や動画共有サイトなどで頻繁に取り上げられ、特にニコニコ動画やYouTubeでの関連動画が数多く存在する。彼の台詞やシーンは、数多くのMAD動画やコラージュ作品に引用されている。
3. メタ分析と社会的な見解 野獣先輩のミームは、一部では「クソコラ」や「淫夢厨」といった否定的な評価も受けているが、その一方で、彼のキャラクターは多くのネットユーザーにとっての共有文化として認識されている。この現象は、現代のインターネット文化におけるコミュニティ形成やアイデンティティの一環として理解されることができる。
4. 結論 野獣先輩は、インターネットミームとしての象徴的な存在であり、彼のキャラクターとその派生作品は、日本のインターネット文化において独自の位置を占めている。彼の影響力は、単なる一過性の流行にとどまらず、ネットユーザー間のコミュニケーションや文化の一部として定着していると言える。
野獣先輩のもつ本質的な意味
キリスト教会が野獣先輩を使うことについては賛否両論ある。ただ、ここで間違ってはいけない観点は、野獣先輩が「インキャ男性」にとっての「脅威をかんじない同性」というアイコン性を持っていることだ。
いわゆる野獣先輩をネタとして消費した時に、「ゲイを揶揄している」「ゲイを好奇の対象とし、見下している」という指摘は基本的には本質的に「ずれている」。
なぜなら、
1. 「シミケン」は我々ノンケを象徴する存在ではない
2. ゲイであることと、ゲイポルノ男優であることは等価ではない。前者は性的嗜好であり、後者は特殊な職業的なカテゴリである
3. 野獣先輩について「ゲイを面白おかしく揶揄して楽しんでいる」という指摘は、そもそも「ゲイビデオ」が「ゲイ」と等価であるという非常に強引なコンテクストの「付け足し」であり、解釈する側の問題であって、ミームを消費するがわの問題ではない。
4. ガチムチレスリングのビリー・ヘリントン氏の日本での受容のされ方(これはオンサイト含む)からみられるように、「兄貴」はいわゆるモックキングのような「あげて・落とす」形の冷笑というよりは「サブカルの親しみ」という受け取り方をされた
これらの論拠から、「露出されたゲイコンテンツ」と「ゲイ属性」の混同そのものがまず差別の温床であり(例:我々は自動的にシミケンや加藤鷹にはならない)、ネットミームが紐づけているのは「露出されたゲイコンテンツ」であるという前提条件をまず明確にしなければならないということだ。
ネットミームのもつ本質的な意味
そして、野獣先輩は、たとえばハセカラやwojakなど、サブカル・アングラのネットコンテンツである。「ネットのおもちゃ」という言葉は揶揄的に乱用されるきらいがあるが、「おもちゃ」とは壊して遊ぶものではなく、ガンダムやプラモのように組み立て、独創的に発展させていくものである。
ゆえに、野獣先輩もMADが生まれ、音楽コンテンツが生まれ、また海を渡った。
これを「ネットいじめ」というふうな一元的な解釈をすることは危険が伴う。
むろん、ハセカラのような文字通り「ネットいじめ」に端を発したコンテンツもあるが、重要なのは
1. 強烈なキャラクター
2. ストーリー
3. 文化の発展
という3つの軸から、たとえばハセカラは3DMADや周辺にアングラの文化が育まれていった。
野獣先輩もこの流れの一つであり、まずそれは「キャラクター」「ストーリー」「文化性」という3つの軸から巨大化していった一つのコンテンツなのである。
若者のもつ「闇」を浄化するProxy
そこまで日本の教会は読めますか?ということだ。当教会が日本の教会の「お行儀の良さ」に問題意識を持っているのも、そのお行儀の良さが、善意や道徳によって若者を押し潰していると感じるからだ。
道徳や高潔さをご立派に語る大先生なんかより、教会に来る障害者につきそって食事介助をやりとおす信者の方が1億倍価値がある。
この倒置構造というか滑稽さという問題を、わたしの観測範囲では教会で見てきた気がする。(手を汚さない道徳的にご立派なクリスチャン大先生問題)
日本の教会で、教会のお兄さんが「はは、きみのシャツはだけてるね。それでいいのかな」などといったネチネチした・イヤミな指摘をするのであれば、律法にはじまり律法で終わる、エホバの証人とレベルの大差のない教会になってしまう。それは目的と手段を履き違えている。クリスチャンが魅力的でない。
彼らが野獣先輩で笑っているときに感じているものは「脅威をかんじない同性」という、非常にレアでありながら彼らが失っているであろう関係性である。
それは、クラスで迫害してくる陽キャや大人たちではない。自分たちを縛り、自分たちをジャッジする大人でもない。
それは、自分が見下すことのできるアイコンでありながら、「自分自身」を「野獣先輩」に投影しているのだ。
政治よりも野獣
わたしは日本の教会が政治を全面に押し出すのは、シンプルに間違っていると思っている。
これは私見であってそうでない人をダメというわけではないが、この「党派性」を要求するような人間関係というのは、健全ではない。
若い人に伝えるべきメッセージは今の与党がだめだとか野党がだめだとか消費税がどうだとかあの不祥事がけしからんということではない。
野獣先輩や真夏の世の淫夢は、そういう意味できわめて「中立的neutral」であり、反芻できる面白さがありながら、たとえば若い子たちのもつ「鬱屈した感情」「負の感情」をそこにダンプできるような何かそのような求心性があるのだ。
それを、白ヘルをかぶることを教会で踏み絵にしちゃだめだろ、
日章旗をたたえることを教会で踏み絵にしちゃだめだろ、
そんなの別のドメインでやれよ、
それ教会じゃなくてもできるよね
と個人的には思ったりするのである。
みなさんご存知、オウム真理教と同じカテゴリの宗教である旧統一教会も、まず
「日本人を許せない」「俺たちが上、日本人が下」
という政治イデオロギーを聖書よりも上に置いたことが1つの特徴として挙げられる。
これは逆も同じだ。特定の集団を蔑んだり敵視したり、自分たちだけがすばらしい、みたいな思想を聖書の上におく、または自分たちの政治思想やイデオロギーを正当化する手段として聖書を使う、
それは、カルトを育む危険があるんだ。
だからダメなんだ。
教会は聖書を学ぶ場所だ。
誰かを憎んだり、排除したり、裁く場所じゃ、ねえんだ。
むろん批判したいというよりも、まず本当に若い人にキリスト教を布教したいなら「優先度」、まちがえちゃだめだよね、と。
その優先度とは、
若い人一人一人の現実的な、即物的な、また内面的な問題なんじゃないか、と。
まずそこをきちんと押さえてなかったら、教会としては何もしていないのと等しい。
やるべきことの優先順位をシンプルに、間違っている。
まあそんなかんじで。
思ってることを書き殴ってみた
岸田文雄氏が「まず選挙に勝たなければ土俵にすら立てない」という言葉を残した(と記憶しているけれど)、
われわれクリスチャンも、「まず面白いと思ってもらえなければ土俵にすら立てない」ということをしっかり覚えた方が良い
身内で殴り合ってる場合ではない
教会で政治を語るなら、野獣先輩を語った方が1億倍ましってこと。
以上!(教会の外なら全然OKよ!)
※なお、新聞はそもそも政治など時事を伝えるための媒体なので、ここでは除外する。あくまで教会が政治に染まるのは個人的に違うよね、と思う