2024年6月12日水曜日

自己防衛おじさんの炎上について、思うこと


事の発端となったのは自己防衛おじさんでお馴染みの橋本鉄平氏が、人身事故時に非常ドアを開けてはならない、というアナウンスがあったにも関わらず開けてしまった、しかもそれをSNSで得意げに話した・・・ということにはじまる

https://x.com/tpyclub/status/1800675659506991209

管理人的にいうと、まああかんよな、我慢しようぜ

になるのだが、それよりも炎上の仕方というかリプライやQTの傾向などに妙な違和感を覚えた


「自己防衛おじさん」じゃなくて「自己中心おじさん」


まあ滝沢ガレソ氏がそのようなキャッチフレーズで紹介したというのもあるが、多くのアカウントが異口同音に、まるでコピペかインプレゾンビかのようにこの単語の入ったリプライを返していたことだ。

これの何を懸念しているかというと、彼らが「自分の言葉をもっていない」ということである

まず例え特定の個人が規則を破り、多数に迷惑を結果としてかけたとしても、まずそれはそこにいた当事者であればいざしらず、自分とは利害関係のない相手である。

無論、そういうことを許容してしまうということは結果として社会を混乱させ、結果として社会が悪くなる、という観点はわかる

ただし、画一的すぎるのである


無論今回の自己防衛おじさんの行為は実際問題、自己中心的であったと言える。

だが、だれかがすでにもう述べている言葉を、まるで土管のようにコピペしてリプライする、そしてそれによっておそらくは社会的な悪に有形力を行使したかのようなカタルシスを得る、そういった人としての「薄さ」、「中身のなさ」といったもの。(揶揄しているわけではない)


つまり自分でものを考える、思考していく、思考の中でいろいろ葛藤していく、自分の言葉をもっている、

そういった人間が比較的(特に下のレイヤーには)少なく、またそういった文化的土壌も乏しいのではないか・・・と考えたのであった。


滝沢氏がもてはやされていることからもわかるが、日本のSNS空間の現状として


「ここ掘れわんわん、ここ殴れわんわん」


というこう画一された、没個性的な、鬱屈した人間の醜悪さ、を私は感じている。


むろんマクロとしてそうなんじゃないか、というあくまでも憶測の域を出ないし、そうでない人も一部見受けられたが、やはり印象としてはそう感じる。

この「土管」のようなメンタリティがどうして危険か、というとそれは個人としての価値観とか思想体系がなく、あるのは相互監視を本質とした規律道徳、そしてその共通合意や黙契を破ったものへの「有形力の行使」を通してのカタルシス、またそれを助長するSNS、といった構造上の問題がある。

こういった人間の類型を、ここでは「土管人間」とよぶ。

ナチスドイツでアイヒマン?の分析をハンナアレントがやっていて、その「凡庸性」「自我の薄さ」「中身のなさ」といったものを列挙していて、これって日本人にも(というと実際は主語大きいんだけどね)当てはまるんじゃないか、と思ったのだ。

自我があれば、自分で考え、自分で思考し、自分で判断する、ということがあれば誰もがロボットみたいに誰かがすでに呟いたことを繰り返すことはない。

みんなが「こいつけしからん!リンチしようぜ!だってこいつはXXXXだから」という空気になったら、自分も「よし!リンチしよう、だってこいつはXXXXだから」になることはない。

これは黒板の板書をひたすら書き写す教育の産物かもしれないが。

でもそれってただの土管なんだ。それを中道って自称する人がいるんだけど。

つまり本質としては土管人間である。土管であるがゆえに強烈なアジテーションやプロパガンダというものに露出してしまうと過度の傾倒・盲信をしてイデオロギーの泥沼にハマっていく傾向がある(反ワクチン・老人のネット右翼化・全共闘・その他)。

イデオロギー的になるということのうちでも、一部の学生運動や政治セクトのような全体として「グロテスクな中身のなさ」「ゆえの、極端な党派性」というのは、それがある意味で残虐さを帯びて集団リンチやテロを引き起こした。(無論、学生運動ぜんぶが悪い、といいたいわけではない。そこまでは当方ではわからない)

この「グロテスクな中身のなさ」は、自分自身を持っていないこと、ゆえに「公的」概念を振り翳して「村の掟に背いたもの」への有形力の行使を通じて「自分を肯定し」「仲間と連帯感を強める」こと、

これが外国人差別などにも通じているような気がしている。


価値観のコアなところが抜けていると、やはりアジテーションに染まりやすいわけで、それを「自分は中道」などと錯覚しやすいわけで、


でも本当の意味での知性は、やはり


「一歩引くこと」


つまり「自分の言葉をもつこと」


「自分の価値観をもつこと」


なんじゃないかな、などと感じる今日この頃なのである


わたしが聖書ASMRを継続し、それがときたまバズった後に、

ゲームとかAV、その他でキリスト教的なパロールの類似のキャッチフレーズを使っている例を散見したが、そういった広告を打つ側の主体が、


驚くくらいに人間が「薄っぺらい」


というのをわりと深刻に感じた。彼らは「与えられた思想体系のエッセンスを学習することができない」一方で、「上澄をファッションとして劣化させて使い回す」(ゆえに、神をふざけた偶像にすげかえて、キリスト看板のモチーフは踏襲する、など)


これが、日本にキリスト教が定着しない大きな理由だと思われる


まあそんなこんなで。もちろん筆者がそういう「土管」な人たちを馬鹿にしたいとか、下げたいわけではなく、


だからそういう人こそ


「聖書」とか「神」


必要だよねって話。


ただ、村の掟があって、それを破った人間に石を投げて村八分にして、正義感を満足させるみたいな、そういう次元の、もう一つ向こうに行こうぜ。っていう。


「こいつ気に入らねー!」じゃなくて、「こいつもまた、神は愛す」に変えていこう。


聖書を本当にきちんと読むと、自分の価値観の土台が、できるんです


きちんと、読めばね。


まあそんなかんじで


最後までよんでくださってありがとうございました。まああくまでも個人のおっさんが好き勝手喋ってるだけなんで、あんまり怒んないでね!


よろぴこ(全裸)


0 件のコメント:

コメントを投稿