2024年6月27日木曜日

声優:ありがた〜い私、の魅力


やはりASMRキリスト教会を語る上でありがた姉さんことありがた〜い私、は欠かせないというのはある。

彼女は、聖書ASMRをやる前から何件か依頼していて、はじめはR18系の案件を依頼していた。

これは巴パインさんなんかもそうだが、R18の下地のある声優さんを参戦させることにはいくつかのメリットがあった。


1. 聖書朗読のような宗教系の案件を受けてくれる可能性が高い(なんでもやってくれる)

2. ASMRを演出する上での「色気」の解像度が高い、表現の幅が広い


以前「男を魅了する声が出せること」という要件で声優さんを募集した時、教会関係の人から「気持ち悪い」「教会大丈夫か?」というフィードバックが出たことがある。

これは、個人的に結構的が外れてるな、と思っていて


1. そういうことも含めて個々の教会員の「品行方正さ」を監視・ジャッジする空気が教会をより「老齢化」させた側面がある

2. 「品行方正さ」が形骸化していて、自己目的化している

3. 「律法主義」であり、非キリスト者へのオープンさに欠けている

4.  この世と調子を合わせないことと、この世を拒絶することは違う(この世と調子を合わせないことについてはエホバの証人などカルトの右に出るものはない)

5. 言葉に過剰反応していて、本質を履き違えている


といった問題がある。ただ、この方はある意味で日本の教会の現状の問題点をよく言語化してくれているんだと思う


クリスチャンって品行方正な善人の集まりじゃないんだよね。


罪人の集まりなはずだ。


つまり、自分の罪を自認できていない、例えば教会に来る中高生のはだけたTシャツをいやらしく指摘するような大人は、ずれている。本人に自覚がなくても。

品行方正な、綺麗な人が集まる教会。

綺麗な言葉で、綺麗事で、きづいたら老人だらけ。


そんなところに若者はついてこない。


だから誤解を恐れず言えば、

本当に若者に聖書を普及させる気があるのならば、

エロいお姉さんが必要だ。ありがた姉さんみたいな。


性をタブーにすることがクリスチャンとしての前提条件、というのはあなたの勝手な思い込みだ。むしろ、そういう抑圧をすることで子供に「反動・害」を与える可能性のほうが高い。


教会やクリスチャンにありがちな、神を代弁してクリスチャンがクリスチャンを裁くみたいな構図はだれも救わない。誰の利益にもならない。律法学者やパリサイ人と同じだ。


それが、宗教二世とか宗教虐待を生み出す。


そういう、世俗への許容量のなさ、余裕のなさが、

教会をより社会にとって「無価値」な、「象牙の塔」にしてしまう。


俺はそれ、よくないって思ってる。


神様を知らず、罪のうちをあるいている大多数の日本の若者に、

神を届けるには、「男を魅了する」必要がある。


読むのはふつうの聖書だ。


何を伝えるかを変えず、「どう」伝えるか、を徹底的にカスタマイズする。


そこにしか、日本の教会を生き返らせる活路はないよ、と。


ありがた姉さんのすごさ

それを考えた時に、やはりありがた姉さんの訴求力というか演技力って化け物としかいいようがないと思う。

あの人はいわゆるザ・R18というよりも本当に「技術を極めている」。彼女はR18という戦場で戦っているが、そこでの彼女の場数の踏み方って相当エグくて、

多分下手な女優よりも圧倒的に演技力や感性が優れていて、

「圧倒される」。

だから、「男を魅了する」っていうことは「若い男性を魅了し、聖書をよむモチベーション」を継続して与えるってことなんだ。

ありがた姉さんは、そこで非常に重要な役割を果たしてくれていて、

エロの世界で培った「すべての武器」を聖書朗読に投入してくれている。

だから色鮮やかだ。表現力は奥深く、聞く人に手に汗握らせる。

これまでの西洋美術において「裸婦」がある意味アートの試金石だったように、

彼女は何千も・何万も、この「裸婦」をひたすら声で描き続けた。

だから彼女は輝いている。

だから、下手なAIのモノマネなんかじゃ彼女についていくことはできない、

彼女の朗読をきくとき、僕らクリエーターは

「AIの限界」

を垣間見てしまう。

僕らは、もっとエロにオープンであるべきだと思う。

ありがた姉さんは本当に偉大だ。子供も育てながら、主婦業もしながら、そういった傍で大量の受注もこなし、自分のプロジェクトもこなしている。並大抵の努力ではできない。


仕事を遂行する能力も異常(に卓越している)としか言いようがないし、

クリエーターとしても、声優としても、能力値がずば抜けていてちょっと「普通じゃない」。


そういうふつうじゃない声優さんたちがぼくらの聖書朗読に参戦しているんだ。


パリサイ人律法学者は、遊女に石を投げろ、といきめいた。


自分たちの罪には無自覚に、ただ品行方正でない女を裁こうとした。


僕らキリシタンがしなければいけないのはそうではない、


キリストのように生きることじゃないでしょうか。


品行方正なキリスト教会のみなさん、

「けしからん!」「気持ち悪い!」って眉をひそめている暇があったら、なりふり構わず聖書を伝えましょうよ。


そっちのほうが、建設的だぜ。


ありがた姉さん、いつもありがとう。

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