以前、すきえんてぃあ氏が以下のような投稿をされていて、「ほぅ」となった。
すきえんてぃあ氏はキリスト教徒ではない方なので、信者でない人の目線がみれるというのは非常におもしろい。なぜ「イエス様」に違和感を感じるのか?
100%すきさんの意図やコンテクストを汲めているのかは一旦置いておいて
この「イエス様」問題を、わしの観点からもう少し解剖していこうとおもいまふ
イエス様そのものはまあ、ふつうに使われている
はじめに言っておくと、わしのようなキリスト教家庭で育った身からすると、まあ「イエス様」と呼ぶことそのものはまあ当たり前だよね、となる。おそらく信者のほぼ100%このイエス様を日常的に使用しているからである(わしの体感としてはね)。まあ、神なので。
一方で、「イエス様」という呼称は、「身内ノリの」呼び方
いっぽう、すきさんの感じる「違和感」というのは本質を穿っているところがあって、これは既存の教会そのもののもつ「閉鎖性」「身内ノリ」をある意味で体現している。その身内ノリが「滲み出てしまっている」、それが「イエス様」という言葉に詰まっているような気もするのだ。なのでわしとしては「Oh! Good Question」的な発見があったことも事実だ。
キリスト教徒は往々にして、キリスト教徒同士でしか使わない用語・世界観・前提条件で会話する。それが信徒同士の会話やミサならともかく、これをたとえば「未信者を想定した」世の中全般への発信でもおなじインターフェースで発信をする。
よく考えてみてほしい。日本語圏、という縛りだけで考えても、たとえば会社とかで自分の上司や社長を取引先で「上司さん」「上司課長」などと呼ぶのはやはり非常識(と伝統的な社会通念では思われている)のであって、取引先には「上司は今席を外しておりますが〜」というのが常である。
それが教会という閉鎖空間の一歩外をでたときに、忘れ去られている。
伝道でだいじなのは、未信者をしること
まあ「未信者」という単語を使って「おまえこれから信じるんだからな」みたいな価値観の押し付けはしたくないんじゃが、この言葉がまあ便利なんであえて「未信者」という単語で一括りにさせてもらうと、やはり未信者の人に神を伝えるのにだいじなのは未信者のきもちを理解し、未信者の需要を理解し、未信者に「次もまたこの人に会いたい」と思ってもらえることなのではなかろうか。
その際、いわゆるカルト的な擬態(人生の意味を考える会〜)は結局世俗を装ってカルトに引き摺り込む蟻地獄であり長年社会問題化しているのだが、ただし彼らのような「悪」から学ぶこともあるはずだ。
それは、伝統的な、本当に人々を益することを意図したフツーの教会が、もっと「世俗にコミット」することだ。
ASMRキリスト教会の淫夢コンテンツなんかは、いわゆる宗教アスペ(つまりカルト)をフィルタリングするための「お札」みたいな役割も果たしており、そういう形で徹底的にエンタメとして機能する、未信者の人が「おもしろい」「時間を消費するメリットがある」と思ってくれるということが肝要だ。
そのためには、キリスト新聞の松谷さんにも伝えたことだが、教会が蛸壺化し、蛸壺から老人ホームになるみたいな最悪の事態は避けなければならない。
カルトをのさばらせてはならない。既存の教会がもっと元気にならなければならない。
信徒を大事にしないといけない。
まあそんなことを思った今日この頃でした!
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