最近戸塚ヨットスクール校長が新しくYouTubeを開設したことについて、管理人の個人的な私見を述べておく。まあこのブログ全体に言えることであるが内容はあくまで管理人の個人的なお気持ちとか感想であって別にそれが正しいと言い切るものではない(そもそも私は完璧とは程遠い存在である)。ただ、私個人も一児の父ということもあり、自分自身の考え方をここではっきり言語化したいと思ったのであった。
戸塚校長について、私個人の所見は以下:
1. 教育そのものを履き違えている
2. 自分のドグマを反芻することが知的活動の軸になっており、教育者自身に成長性がない
3. 自分を過大評価している
一つづつ深掘りしていこう
1. 教育そのものを履き違えている
まず根本的に、教育そのものについての基礎的な理解がない。
かろうじてカテゴライズするとすれば戦前の軍隊的なスパルタ教育(ゆえに体罰あり)に該当するであろう。もともと人並み以下の「どうしようもない」やつらを更生させるためには、暴力をもってまず秩序を作るということで、刑務所や強制収容所のような価値観であり、そこには秩序はあるが愛情がない。(あれば自殺はしない)
そもそも、「なぜ叱るのか」「なぜ罰を与えるのか」についての決定的な勘違いが、戸塚校長にはある。
あなたは親が子供を叱るのがなぜか、簡潔に言語化できるだろうか。
叱るのは、叱られる側の「死」および「不利益」の回避
を目的としている。
例えば1歳児がキッチンブリーチを楽しげに開封しようとしていたら大声で叱る、それはそれを弄べば最悪「死ぬ」からである。
これ以外に「叱る」という行為の目的はない。
だから
- 叱ることが過剰に多かったり、
- マイクロマネジメントになったり、
- あれもダメ、これもダメ、な拘束的なマネジメントだったり(子供の人格や自己決定を尊重しない)
- ヤクザのような怒鳴り方を子供に対してしたり、
- 子供の自尊心や尊厳を踏み躙るような怒り方や言動をしたり、
- 「慢性的に」罰を与えたり、
はすべて教育としてはすでに「間違っている」。
叱るという行為は、非常に短時間に、可能なかぎり間違ったことを行った瞬間に、相手の死や不利益を回避するために行うという意味で非常に「感情消費を伴う」「愛の」行為なのである。
俺はお前を放置しないぞ、俺はお前に死んでほしくないぞ、俺はお前に不利益を被ってほしくないぞ、というコミュニケーションが「叱る」なのである。
だから、威圧的に、キレるように、不快感を露わにするように子供に接するのは、そもそも「終わっている」。まず、その姿勢が「間違っている」ということを理解してほしい。
だから教育の結果「自殺」するなんて、ありえない。教育者がこれを招いたならばもう教育者の資格はない。中世なら腹を切って、現代ならば一生かけて親御さんに償うべきである。
戸塚校長は、もう教育者としては「終わっている」。
支離滅裂な誰も益しない倒錯したイデオロギーに陶酔する前に、まず自分が犯罪を犯した者だということを謙虚に理解するべきだと思う。
2. 自分のドグマを反芻することが知的活動の軸になっており、教育者自身に成長性がない
話す内容も、知的な成長をやめた老人にありがちな、自分が若い頃に齧った価値観を延々と壊れた機械のようにループしているのみである。
女性蔑視的な価値観も到底現代に相入れるものではない。
話す内容に熱量はあるが、知的な聡明さを感じない。
「先生」とよばれる立場を長く経験しただめな教員にありがちな、ただ一方通行的に自分のドグマを垂れ流し、自分自身を反芻しながら歳をとった人、という印象である。これはもちろん子供にとってよい影響を与えない。得るものがない。
3. 自分を過大評価している
彼のような、上から力で押さえつけていうことをきかせよう・・・という発想は子供の人格を尊重していない。
「脳のCPUを可能な限り節約し使用しない」という怠慢的な意味でのよくある「保守」的価値観であり、子供の成長にとって足枷となりうる。
また、ご自身への不名誉な刑事罰によってご自身も半ば社会的には「終わった」のであり、彼そのものの思想やイデオロギーを社会に普及させるほどに彼自身に人徳や魅力はない(高齢すぎるのもきつい)
とくに、親からあずかった大事な子供を何人も殺したという時点で教育者としてはもう「死んでいる」のであり、
ヨットスクールという「閉鎖された」社会で、弱い子供相手に暴力を振るっているというのが正確な実像ではないかと思われる。
まとめ
戸塚校長のYouTube開設について、まず彼の教育そのものについての履き違えや無理解、本人そのものの教育者としての能力の問題、自分自身の間違った自己評価などについてここでは述べた。ただ、これはあくまでも管理人個人の感想や意見なので、悪しからず。
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