※この話はフィクションです。実在する人物や事件とは関係ありません。
半ば終わった話だ。
四郎は病室の中で瞑想に耽っていた。仲間何人かとバイクで走ってた。
「闇の中を、爆音立てて走るあの感覚。
爆音は普段のクソみたいな鬱屈した毎日を忘れさせてくれる。クソみてぇな大人。クソみてぇな社会。
四郎と五郎は腹違いの兄弟で、6畳半の汚い部屋に母親と3人で暮らしていた。
最近刑務所から出てきたんだ、五郎。俺と陽介と西村先輩で出迎えた。
丸刈りになった五郎。俺は兄だったから。刑務官に、中指立てて怒鳴った。
「少しは役に立ってよ。こんなに切り詰めてんのに、また盗っただろ!」
母ちゃんの剣幕。んだよ、そもそもてめーが親父と別れたからこうなったんだろ。
ともいえなかった。そもそも母ちゃんの男を見る目がなさすぎたんだ、でもそれをいったら自分の存在そのものを否定することになるじゃん?
そうして母ちゃんがバッド入ると俺たちがいかに生まれてきちゃいけなかったかの話に切り替わる、小学生からそういうお通夜みてーな説教聞かされてきたんだ、ぐれるだろそりゃ。
「俺は溶接やる」
そうして近所の町工場に就職しようとした矢先に、五郎の連れの妹子が山中のやつらに殴られたっていう話が入ってきた。
そりゃ、男だったらひけないっしょ。
俺は気持ちわかるよ。
で、山中の磯村っていう男とその取り巻きみたいなやつらで、全員だっせえパンチパーマみたいな(昭和かよ)してて、五郎が単身のりこんで鉄パイプで全員ボコしたって話を、
結局警察に通報されて、「ぼくたち被害者ですっ!」て泣きつかれて、10:0で五郎の落ち度になった。
納得いかねえ。
西村先輩と陽介と俺は、近所のドンキの外階段にあるベンチで氷結飲みながら会議をしていた。
五郎はもう俺たちに迷惑かけたくないっていって終わりにしようとしてる。
でもお前のメンツはおれのメンツだから。
俺たち、兄弟だろ。
西村先輩はヤクザの誘いが来ていた。陽介もガタイはふつーだけど喧嘩の技術とか場数でいうとそこらへんのやつより圧倒的に強い。
陽介がブリーチかけて通学した時、イキって後ろでエア蹴りいれてた中年のおっちゃんがいたらしい。アホだろ。
電車でよくみるヤンキーに絡まれる中年。あれってほぼおっさんが悪いだろ。
喧嘩したことねえおっさんって実践経験がねえから自分の「身の丈」をしらねえ。
身の丈をしらねえで自分自身のイメージが抽象化されてるから、やたらオラオラして周りを挑発しがち。自分の能力とイメージがかけ離れてんだな。
だから自分より圧倒的に強い相手に勝てると錯覚してしまう。酒も入って、軽い気持ちで挑発してしまう。そして鼻が砕け、顎が砕け、警察に、ママみたいに泣きつくんだろ。
で、陽介はおっちゃんに何発か入れた。肋骨が2本折れて顎が外れて複雑骨折したらしい。同情できねえ。
俺たち不良はメンツで食ってる。これはヤクザも同じだ。
で、俺たちはお前らよりも圧倒的に暴力の応酬で実践を積み重ねているし、そもそもフィジカルのキャパが違う。だから、体を見ればだいたい雑魚かどうかは一瞬でわかる。
威張ってるやつは、だいたい戦うふうに体ができていない。
つうか、運動不足。
素人の喧嘩なれしてない弱いおっさんは、体の「端々」に力を入れて自分を強く見せる。
滑稽だが動物的な本能だろう。
足の端をぶらぶらして蹴りを演舞する。
拳を握ったり関節を鳴らして威嚇する。
首を捻ってポキポキやって威嚇する。
漫画の見過ぎかよ。
強いオスの威嚇は、一瞬で、短く、最小限だ。
強いオスは、暴力の安売りはしねえ。
そもそもボクシングも武道もそうだけど、力を入れるのは体の端の部分じゃねえ。
ほぼ体幹部分だ。端っこに力は入らねえ。
だから、強く見せるやつと強いやつはそもそも別ジャンルだ。
賢く見せるやつと、賢いやつも、別ジャンルだ。
賢く見せるやつは、いつも必死に自分の賢いことを証明しようとする。
つねに自分を証明しつづけないと自我が保てないやつは、
いつも不安に襲われている、弱いやつだ。
まあ、ほとんどの人間は弱いけどね。
そして、俺ら不良は実際弱くてもいい。
仲間のためなら、特攻したって死ねるんだぜ。
だってもともと親には捨てられてる、褒められたことだってない。」
四郎の独白はここで終わった。
もともと四郎とその友人たちが自滅的な行動に向かっていったのかはやはり徹底的な抑圧があったんじゃないかと思う。
俺が四郎やその仲間とあったときあいつらから感じた極端な威圧感とか治安の悪さみたいなのもあったけど、それ以上に自分の根っこの部分、つまり子供の時に愛されなかった、社会から向き合ってもらえなかったという歪みのようなものを感じ、
また彼らの攻撃的衝動的なモチベーション、そして他者からの挑発に極端な暴力で応酬するという行動パターンが、その極端さの根っこにあるのが脆さであるようなかんじがした。
また、大人のもつ挑発的な(と彼らが受け取っている)行動についても、多くの人間ならばやり過ごせる部分にも過剰なリアクションをする、そういったところに生きづらさがあるような気がする。
四郎らが、五郎の認知抜きで山中の連中と衝突し、半ば殺し合いのような形で西村先輩は刺殺され、陽介くんは向こうのバックにいたヤクザに拉致監禁され、コンクリート詰のかたちでのちに警察に発見される。
四郎のみが無事だった。破壊されて無惨に燃え上がるバイクを背後に、命からがら逃げ延びた。が、彼も2日後に磯村の舎弟の中西によって暗殺されてしまう。
ただ、おそらく彼らがもっていた鬱屈感や社会に対する憎悪というものはある意味で、あの若い世代の共通の共同幻想なのかもしれない。
それが、例えば引きこもりという子達を例にとっても、彼らのまた同じトランプの表裏に過ぎないのではないか。
だから、彼らに向き合えなかった我々大人にも責任はある。
四郎・五郎の母親と面会した時、石像のように微動だにしなかった彼女が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちたのを見ていて、つらかった。
子を失うことがいかに壮絶か。
どんなに世間的に非難される子であっても、愛している家族がいる。
私は、そう信じたかった。
※この話はフィクションです。実在する人物や事件とは関係ありません。
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