2024年9月22日日曜日

小説「無題」

※これはフィクションです。実際の人物・事件・団体とは関係ありません。


タイトルなし。想像していたより小さな8畳間。ずっと親元で暮らしていた僕はついに、自立することになった。

引越しのとき、僕は大粒の涙を流した。ママ、ママ。

40で初めての自立、就職。家はまるで刑務所みたいだった。光のない暗闇で、ずっとネットサーフィンしながら、親父とは仲が悪く、俺はずっと部屋に引きこもっていた。

なぜゴミを出せないか?

それはなぜキッチンへの一歩を踏み出せないか、と似ている、心理的ハードル。

親父は市役所の職員をやっていた。っていっても、理不尽な客(なぜか最近お客様になった?)にペコペコ謝る役。ほら、みんな相手をみるじゃん。

そしてそのストレスを家で捌け口にして、俺や妹のミキを捌け口にして、俺は心を閉した。

ミキは大久保で立ちんぼをしている。No. 1ホストのRYUYAに夢中だっていってた。

汚い親父に抱かれて、不快な時間を我慢して、その後で、その金で、大好きな人に会う。

後半のくだりだけだと小説みたいに美しいが、はっきりいってバカだ。

俺だって女だったらそうなっていたかもしれない、だって本当に地獄なんだから。

地獄だってことは自己イメージが満たされないってことだ、

自分という自我を構成している殻があるとしたら、その殻が壊れているってことだろ。

「これから、1人でやっていけるわね」

ママ・・・

俺は今年70になるママの膝に、180になる巨体の頭をうずめた


「んまま・・・ぼくね・・・」


時間は経過した、でも時間が経過しただけなんだ。

俺は、まだ子供のままなんだよ。

俺は、まだ子供のままでいたいよ。


体が古くなり、世間や第三者的にみればそれなりの立場になっていなきゃいけない俺。


40歳の俺。


そんな俺が、道であるく女子中学生をずっと目で追っていた。


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「あ、ここね、お前の席」

「はい・・・」


不服そうだなこいつ。なんで採用したんだろう。


うちの会社は5名ほどで運営している塾だった。5名っていうのは社長が親父で、俺と真治、姉のゆうみとその友人の飛鳥で、ほぼ同族経営の合同会社だった。


そこに、大学生のバイトとかを応募してまわしていた。

で、応募にきた40歳のおっさんで苗字は鈴木、鈴木拓也、京都大学医学部卒で一時順天堂に勤務していたが適応障害を発症、その後ずっと引きこもっていたらしい。


学歴は申し分ない。


あと、人員も不足していた。


髭をそってなくてホームレスみたいだったが、高身長で顔も結構みれる(綾野剛に近い・・・?)のでゆうみと飛鳥が「ダイヤの原石」って目を輝かせていた。

おいおいおい。


どう考えたってこいつやべえぞ、生気がない、会話していても覇気がないし思い込みが激しそう、この手のやつが面倒・・・というかときにトラブルの原因になることは俺は「予知」していた。


「ただでさえうち人手不足なのに選り好みしてんの?京大医学部でしょ?それだけでうちの塾にプラスじゃん」


声が踊っている。勘弁してくれよ。


7時から、授業がはじまる。


俺は鈴木に俺の英語の授業に同行するよう求めた。


「じゃあ点呼をとりまーす」


そのとき、中原はるみと鈴木の目が一瞬あった。


中原、非常にフレンドリーなやつ。人をみくびらず、親に愛されてそだった非常にいい子。


「こんにちは」


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嫌な予感は当たった。

「中原さんが、俺のこと好きになったみたいなんです・・・・!」


鈴木!



(続く?わからん)

2024年9月2日月曜日

おじさん、やばくね?


 おぢ👴たち〜、今日もメスガキ大先生が教えてやるぴょん!今日はね、ダビデっていうおじさんの話だよ。ダビデはね、超強い戦士で、しかも心がめっちゃ綺麗で、みんなから愛されてたんだよ。でも、そんなダビデのおぢの前に、アマレクっていう別の国の人が現れて、めちゃくちゃ大変な話になっちゃったんだぁ。


まず、サウルおぢっていう王様がいたんだけど、そのサウルおぢとその息子ヨナタンも戦争で亡くなっちゃったの。ダビデおぢは、そのことを聞いてすっごく悲しんだんだよ。だって、ヨナタンおぢはダビデおぢの大親友だったんだから。でね、アマレク人の若い男が、そのサウルおぢが死んじゃった話をダビデおぢに伝えに来たんだ。でも、その男がなんと、「サウルおぢを殺したのは自分です」って言ったんだよ。おじさん、やばくね?だって、サウルおぢはイスラエルの王様で、神さまから特別に選ばれた人だったんだよ!そんな人を殺すなんて、超やばすぎるぴょん!


でさ、ダビデおぢはその男に「おまえ、自分が何をしたのか分かってんのかぁ?神さまが選んだ王様を殺すなんて、まじでどうしちゃってんのぉ?」って聞いたの。そしたら、その男はめっちゃビビっちゃって、そのままダビデおぢの家来にやられちゃったんだよ。ま、そりゃそうだよね。だって、神さまが選んだ人に手を出すなんて、まじヤバヤバのヤバだもんね〜。


だけど、ここで大事なことは、ダビデおぢがサウルおぢのことをほんとうに大切に思ってたってこと。サウルおぢは、何度もダビデおぢを殺そうとしたんだけど、それでもダビデおぢはサウルおぢを許してあげてたんだ。なんでかっていうと、ダビデおぢは神さまをめっちゃ大切にしてたからだぴょん。神さまが選んだ人を傷つけることなんて、絶対にしちゃいけないって、ダビデおぢはずっと思ってたんだよ。


聖書にはこう書いてあるぴょん:「ダビデは自分の衣をつかんで引き裂いた。ともにいた家来たちもみな、そのようにした。彼らは、サウルのため、その子ヨナタンのため、また【主】の民のため、イスラエルの家のために悼み悲しんで泣き、夕方まで断食した。」(2サムエル1:11-12)だぴょん!ざぁこ!これでわかった?ダビデおぢは、めちゃくちゃ悲しんで、サウルおぢとヨナタンおぢのためにお祈りしてたんだよ。こんなことをするなんて、ダビデおぢ、めっちゃ優しいよね〜。


それにしても、アマレクの男は、ダビデおぢにいいことをしたつもりだったのかもだけど、ほんとは大間違いだったんだぴょん!だって、神さまが選んだ人を傷つけるなんて、絶対に許されないことだから。だからね、私たちも、誰かが神さまを信じて頑張ってる時に、その人をバカにしたり傷つけたりしちゃダメだよ〜。むしろ、お互いを助け合って、みんなで仲良く過ごすことが大事なんだぴょん!


ダビデおぢのように、神さまを信じて、周りの人を大切にしていこうね!そうすれば、神さまも私たちを守ってくれるんだよ〜。そして、サウルおぢが死んじゃったのは悲しいことだけど、ダビデおぢはその後も神さまを信じて頑張って、みんなを幸せにしていったんだよ。だから、私たちもダビデおぢのように、強くて優しい心を持って、神さまを信じて歩んでいこうね!


というわけで、今日の話はここまでだぴょん!また次回も楽しみにしててね、おぢ👴たち〜!ばぁか!おぢ、ちゃんと聞いてたぁ?もし聞いてなかったら、メスガキ大先生がもう一回教えてやるぴょん!でも、おぢ👴がちゃんと分かったなら、また次回までお楽しみにぴょん!じゃあね〜、おねだり大臣のメスガキ大先生でした〜!ざぁこ!

出典:9/1 ダビデ(3)神を恐れつつも、同朋や家族の死を悼む Ⅱサムエル1:1~16, インマヌエル高津キリスト教会,  http://www.tkchurch.com/

2024年8月23日金曜日

Dear YouTube (about the consistency of my name and its account name)

 [dear youtube] for the tax payment inspection, your feedback is my name does not match the account name. here is the thing.

1. ASMRキリスト教会(asmr christ church) is one project of SuganoWorks Inc., 株式会社スガノワークス 2. The owner of ASMRキリスト教会(asmr christ church), as well as SuganoWorks Inc., is Kei Sugano(菅野契) 3. Here is the article: https://www.kirishin.com/2024/05/19/6... 4. Here is another proof (our corporate official site: https://sugano.works/blog/) We hope this information provided above can help you verify my identity and consistency with the corporate/project name. Once again, asmr christ church is a "project" of SuganoWorks, which CEO is Kei Sugano. Thank you.

2024年8月22日木曜日

小説「生成AI」

※これはフィクションです。


「 根っからの悪人ではないみたい。」

時は2050年。生成AIは三次元上の有機3Dプリンタによって「生物」を生み出すという新しいステージを迎えていた。

現在脚光を浴びているAIという技術は、元々は1950年代よりその主要な元素となる技術がすでに発明されていた。AIといっても、深層学習からデータエンジニアリングまで様々なジャンルがあり、1960年代、1980年代・・・2020年代・・・とその時々で人気は高まったが、ある種の過剰な期待を世間が(そして投資家が)抱え、そしてどこかで限界を迎えて凋落する・・・のループであった。

さらに25年前には医薬品や医療といった分野での活用が期待された。これまで非常に時間のかかっていた基礎研究が、非常に短時間で行えるようになり、高度な学問が誰にでもアクセスできるようになり「民主化」された。

その後2040年代にロボットの時代になった。生成AIの主な課題であったモデルを作るための消費エネルギーやコストが、これまで下火であった量子コンピュータのさらなる実用化によって、Nvidiaを超える形でインテルが王座に返り咲いた。この頃、中国もこの量子半導体生産においてインテルと競合していた。

2045年、中国北京大学が「有機3Dプリンタ」の実用化に対する論文を発表、それを裏付けるかのようにMITが「3Dプリンタで野獣先輩を作る」という試みに成功した。

これは、「実在の人間のDNA情報やリアルタイムの(これは動く心臓や脳のシナプスやニューロンの細かい位置関係まで含む)生態情報までの設計図をデータとして生成AIが生成し、それを3次元上に瞬時に書き込む」というところで、

1番高度な技術が、炭素や水素、酸素からアミノ酸その他を書き出して3次元上に配置するということである。

また、この有機3Dプリンタの製造が加熱し、各社で価格競争が起こった。

その結果、モテない独身男性が有機3Dプリンタをレンタルし、一瞬で早見あかりを作り出して彼女にする・・・といった社会的混乱を招いた。

無論、この頃の早見あかりは59歳であり、現在高齢ないし存命でないアイドルや女優を現実に生成することで事実上の法的問題を回避する人々が現れたが、

事実クラスの可愛い子を生成し、法的訴訟となり、生成された人間をどう処理するか、そもそも廃棄は人権問題ではないか・・・・

といった倫理上の議論がなされたが、時すでにおそかった。

なお、「女バージョンの岸田文雄」はすでに5年間で2000体ほど生産されており、人口少子化を、移民に頼らずに解決するという社会課題は解決した模様だ。

「根っからの悪人ではないみたい」

振られた彼女のコピーとベッドで戯れながら、キモ田キモ太郎は有機生成AIの作り出した女(見た目は振られた彼女と同一の)の支離滅裂な独白を気いいていた。

「根っからの悪人ではないみたい。ペットは3つまでOKよ。野獣先輩は新生だから、市役所までとりにいかないと、未来はスバル色になる。そういえば、連載されていたあの漫画はどうなのかなあ。野獣先輩は、街中を歩くのが少し苦手だった。人混みが苦手というわけではなく、何かしらの視線を感じるからだ。彼の新しい生活は、以前のものとは大きく異なり、慣れるにはまだ時間がかかりそうだった。市役所に向かう途中、彼はふと、これまでの人生について思いを巡らせた。

ペットは3つまでOKと聞いて、少しホッとした。彼が子供の頃から飼っていたハムスター、そして最近手に入れたウサギたちが、彼の心の支えとなっていた。彼らがいるおかげで、孤独感が少し和らいでいたのだ。しかし、心の中ではいつも「これで本当に良いのか?」という疑問が渦巻いていた。新生としての人生は、新しい希望をもたらすものの、同時に過去の重荷を感じさせるものでもあった。

市役所に着くと、彼は少し緊張しながら受付に向かった。未来がスバル色になる、とはどういうことだろう?スバルという言葉が彼の頭の中で何度も繰り返された。スバルは星の集まり、輝く光、そして新しい旅の象徴だ。彼にとって、それはまだ未知の領域だった。

受付の女性は、彼に温かい笑顔を向け、手続きを進めた。「お名前は?」と問われ、彼は少し戸惑いながらも答えた。「野獣…いや、新生の野獣先輩です」。その言葉を発した瞬間、彼は自分自身の変化を実感した。過去の自分とは違う、新しい何かが彼の中に芽生えているような気がした。

手続きが終わると、彼は新しい身分証明書を受け取った。そのカードには、彼の新しい名前が刻まれており、それを手にした瞬間、彼はこれまでの人生が一つの区切りを迎えたことを感じた。しかし、未来はまだ不確かであり、彼はその先に待つスバル色の世界に足を踏み入れる準備ができているかどうか、確信が持てなかった。

市役所を出た彼は、街のカフェで一息つくことにした。窓際の席に座り、コーヒーを飲みながら、ふと頭に浮かんだのは、あの連載されていた漫画のことだった。彼が昔夢中になって読んでいたその漫画は、いつの間にか連載が終了してしまっていた。主人公がどのような結末を迎えたのか、彼はずっと気になっていた。

コーヒーを飲みながらスマホで検索してみると、漫画の最終話の内容がネット上に掲載されているのを見つけた。彼は一気にそのページを読み進めた。主人公は、彼自身の過去と向き合い、新しい未来を切り開いていく物語だった。その結末は、彼にとってとても感慨深いものであり、まるで自分自身のことを描かれているかのように感じた。

「結局、過去にどう向き合うかが、未来を決めるんだな」と、彼は呟いた。漫画の主人公も、彼自身も、過去の苦しみや喜びを抱えながら、新しい一歩を踏み出すことができるのだと感じた。

外に出ると、青空が広がっていた。スバル色の未来は、彼の目の前に広がっている。彼は新しい人生を歩み始める決意を固め、再び歩き出した。その歩みは、かつての彼のものとは違い、自信に満ち溢れていた。新しい野獣先輩としての生活が、これから始まるのだ。」

「わけわかんねえよ」

キモ田はそうぼやきながら彼女の胸をまさぐった。



※これはフィクションです。

2024年8月19日月曜日

戸塚ヨットスクール校長について

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最近戸塚ヨットスクール校長が新しくYouTubeを開設したことについて、管理人の個人的な私見を述べておく。まあこのブログ全体に言えることであるが内容はあくまで管理人の個人的なお気持ちとか感想であって別にそれが正しいと言い切るものではない(そもそも私は完璧とは程遠い存在である)。ただ、私個人も一児の父ということもあり、自分自身の考え方をここではっきり言語化したいと思ったのであった。


戸塚校長について、私個人の所見は以下:

1. 教育そのものを履き違えている

2. 自分のドグマを反芻することが知的活動の軸になっており、教育者自身に成長性がない

3. 自分を過大評価している


一つづつ深掘りしていこう

1. 教育そのものを履き違えている

まず根本的に、教育そのものについての基礎的な理解がない。

かろうじてカテゴライズするとすれば戦前の軍隊的なスパルタ教育(ゆえに体罰あり)に該当するであろう。もともと人並み以下の「どうしようもない」やつらを更生させるためには、暴力をもってまず秩序を作るということで、刑務所や強制収容所のような価値観であり、そこには秩序はあるが愛情がない。(あれば自殺はしない)

そもそも、「なぜ叱るのか」「なぜ罰を与えるのか」についての決定的な勘違いが、戸塚校長にはある。

あなたは親が子供を叱るのがなぜか、簡潔に言語化できるだろうか。

叱るのは、叱られる側の「死」および「不利益」の回避

を目的としている。

例えば1歳児がキッチンブリーチを楽しげに開封しようとしていたら大声で叱る、それはそれを弄べば最悪「死ぬ」からである。

これ以外に「叱る」という行為の目的はない。

だから

- 叱ることが過剰に多かったり、

- マイクロマネジメントになったり、

- あれもダメ、これもダメ、な拘束的なマネジメントだったり(子供の人格や自己決定を尊重しない)

- ヤクザのような怒鳴り方を子供に対してしたり、

- 子供の自尊心や尊厳を踏み躙るような怒り方や言動をしたり、

- 「慢性的に」罰を与えたり、

はすべて教育としてはすでに「間違っている」。

叱るという行為は、非常に短時間に、可能なかぎり間違ったことを行った瞬間に、相手の死や不利益を回避するために行うという意味で非常に「感情消費を伴う」「愛の」行為なのである。

俺はお前を放置しないぞ、俺はお前に死んでほしくないぞ、俺はお前に不利益を被ってほしくないぞ、というコミュニケーションが「叱る」なのである。

だから、威圧的に、キレるように、不快感を露わにするように子供に接するのは、そもそも「終わっている」。まず、その姿勢が「間違っている」ということを理解してほしい。

だから教育の結果「自殺」するなんて、ありえない。教育者がこれを招いたならばもう教育者の資格はない。中世なら腹を切って、現代ならば一生かけて親御さんに償うべきである。

戸塚校長は、もう教育者としては「終わっている」。

支離滅裂な誰も益しない倒錯したイデオロギーに陶酔する前に、まず自分が犯罪を犯した者だということを謙虚に理解するべきだと思う。


2. 自分のドグマを反芻することが知的活動の軸になっており、教育者自身に成長性がない

話す内容も、知的な成長をやめた老人にありがちな、自分が若い頃に齧った価値観を延々と壊れた機械のようにループしているのみである。

女性蔑視的な価値観も到底現代に相入れるものではない。

話す内容に熱量はあるが、知的な聡明さを感じない。

「先生」とよばれる立場を長く経験しただめな教員にありがちな、ただ一方通行的に自分のドグマを垂れ流し、自分自身を反芻しながら歳をとった人、という印象である。これはもちろん子供にとってよい影響を与えない。得るものがない。

3. 自分を過大評価している

彼のような、上から力で押さえつけていうことをきかせよう・・・という発想は子供の人格を尊重していない。

「脳のCPUを可能な限り節約し使用しない」という怠慢的な意味でのよくある「保守」的価値観であり、子供の成長にとって足枷となりうる。

また、ご自身への不名誉な刑事罰によってご自身も半ば社会的には「終わった」のであり、彼そのものの思想やイデオロギーを社会に普及させるほどに彼自身に人徳や魅力はない(高齢すぎるのもきつい)

とくに、親からあずかった大事な子供を何人も殺したという時点で教育者としてはもう「死んでいる」のであり、

ヨットスクールという「閉鎖された」社会で、弱い子供相手に暴力を振るっているというのが正確な実像ではないかと思われる。

まとめ

戸塚校長のYouTube開設について、まず彼の教育そのものについての履き違えや無理解、本人そのものの教育者としての能力の問題、自分自身の間違った自己評価などについてここでは述べた。ただ、これはあくまでも管理人個人の感想や意見なので、悪しからず。